「無敵鉄金剛」ってなんのこと?――おすすめ作品!『ぼくは漫画大王』(白樺)
せっかくの夏休みなのに、このごろはなんだか雨模様で憂鬱ですね。
こんな日はおうちにこもってごろごろしながらご本を読むに限ります!
という訳で、おすすめ作品の紹介レビューを。白樺香澄です。
恐ろしいことに104日ぶりの更新ですって!1クール放置してたのかよこのブログ!
昨年、文藝春秋が邦訳版刊行のための資金を募るクラウドフィンディングを実施したことでも話題になった、第3回島田荘司推理小説賞の2つの受賞作品が今年いよいよ刊行となり、その第一弾『ぼくは漫画大王』が5月28日に出版されました。
喜国雅彦先生による、宝冠を被った主人公が肘掛けにドクロの埋め込まれた玉座に腰掛け、周りには人魂が浮遊しているキャッチーな表紙イラストを、本屋さんで目に留めた方も多いのではないでしょうか。……別に本編にはドクロの椅子も人魂も出てこないのですがそれはそれとして。
物語は「第十二章」から始まります。テレビから流れるニュース映像は、「李師科事件」を報じるもの。1982年に起こった銀行強盗事件です。
犯人の李師科は抗日戦争に従軍し、国民党政府と共に台湾に渡ったいわゆる「老兵」でした。現体制下の台湾で初めての銀行強盗として世間を震撼させた一方で、故郷との離別や新天地での孤独、不安定な生活といった李の境遇に関心・同情も寄せられ、1988年には作家・苦苓によって『柯思里伯伯(柯思里おじさん)』のタイトルで小説化されています(「柯思里(か・しり)」とは李をモデルにした主人公の名で、「李師科(り・しか)」をひっくり返したもの)。
大学生・廬俊彦くんはテレビを消して大学への出がけに、アパートのお向かいの奥さんにばったり出くわします。どうやらご主人と大喧嘩して実家に帰っていたらしい奥さんの愚痴に付き合っているうち、なぜか家に上がって御年12歳の息子さんにご挨拶することになった俊彦くん。
突然の奥さんの悲鳴に駆けつけると、密室状態だった家の中にはご主人の刺殺体が転がっており、「健ちゃん」と呼ばれているその息子は、さらに密室内密室となっていた子ども部屋に閉じ込められていて――
と、舞台立ては『衣装戸棚の女』テーマと言いますか、ザ・ミステリといったところ。気持ちが良いのは2度目に読み返すとこのくだり、わずか18ページの中で、吹き替えドラマみたいな軽妙な掛け合いを重ねながらテンポ良く状況が説明されると同時に、事件の真相を匂わせる伏線がぎゅうぎゅうに張りまくられているところ。
帯の惹句「二度読み必至!」は、なるほど伊達ではありません。
……ただ、この作品、私個人としてはあまり「二度読み必至」と煽られて〈ははぁ、これは何か叙述トリックがあってどんでん返しをしてくれるんだな〉という楽しみ方だけで読み終えちゃうのは勿体ないとも思っているのですが、そのあたりはのちのち。
お話は第一章に戻って1976年に遡り、6歳の「健ちゃん」視点の物語が始まります。
本作の奇数章を占める「健ちゃん」パートは、日本人には旅情を感じる「ちょっと昔」の台北の屋台街の雰囲気の中で始まり、「漫画」との出会いや、初恋の女の子を巡る男の子同士の意地の張り合いが描かれる、日曜の夜のようなほのぼの小学生日常ストーリー。
注目なのは、全編にわたって汪溢する固有名詞の数々。永井豪先生や石ノ森章太郎先生の諸作をはじめ、『ウルトラマン』から『ガラスの仮面』まで、漫画、アニメ、特撮と70年代の日本のあらゆるキッズ向けカルチャーが、ほぼリアルタイムで台湾の子供たちにも親しまれていたことに驚くはずです。
ここで、まだ『ぼくは漫画大王』未読の方にクイズ。
「金得勝」。
これは、ある漫画&アニメ作品の主人公の台湾版の名前なのですが、誰のことでしょう?
ちなみにその作品のヒロインの名前は「余莎莎」、主人公が乗り込むロボットの名前は「無敵鉄金剛」です。
解るかな? 答えは『ぼくは漫画大王』を買って自分で調べてね!
ちなみに水木一郎さん版とはかなりイメージが違う台湾の「無敵鉄金剛」オープニングテーマがこちら。少年合唱団が歌ってて世界名作劇場みたいです。
作者の胡傑先生はご自身が1970年生まれの台北育ちで、「日本の漫画は少年時代そのもの」と公言しています。また、自分の幼少期のあだ名が「健ちゃん」だったともおっしゃっていることから、「健ちゃん」パートのお話は、先生の半自伝小説と言えるかも知れませんね。
一方で偶数章に挿入されるのは、事件の被害者「方志宏」さんの挫折人生のお話。
少年時代に何か大きなトラウマを抱えているらしい方さんは、高校受験に失敗して高職(高級職業学校。日本の高専に相当するが、より「職業訓練校」のイメージが強い)に妥協したこと、そこで手当たり次第に女の子に告白して計18人に立て続けにお断りされリア充青春ライフが遅れなかったことを、勤め人になり職場の副主任になった今もクヨクヨしているコンプレックスの塊。
この方さんに作中で降りかかる受難の数々が、まぁ酷すぎて笑えてくるというか「そこまでいじめなくても」ってレベルです。描き方はかなり戯画化されてるんですが、それがかえって生々しいというか。ざっとまとめるとこんな感じです。
①妻の懐妊が解ったその日に、上層部の派閥争いに巻き込まれて副主任から一瞬でヒラに降格。
②可愛がってもらっていた元上司から「今の会社で良いポストが空いたんだけどまた一緒に働かない?」と誘われてウッキウキ→面接の日にピンポイントで寝坊&バイク事故
③やっと滑り込んだ再就職先の研究センターがゴリゴリの学歴至上主義の象牙の塔で、勤務初日から上司に「よろしくお願いします☆あっ、これから重要機密の報告があるんで低学歴の部外者は出てってもらえますか☆」扱い。
……そんな具合に、物語は明るく楽しい「子どもの世界」と暗くみじめな「大人の世界」を交互に描きながら展開し、読み進めるうちに読者は「子供の頃は良かった、もう一度あの頃に戻って一からやり直せたら」という想いを共有しているはずです。
そして迎えるカタストロフ。
ぶっちゃけて言えば、この作品に仕掛けられているトリックの「構造」そのものは、良くない読み方をするミステリファンには「……うん、知ってた」って類の、まぁベタはベタなもの。
※良くない読み方をするミステリファンの例
・うわ、「カオル」って名前のやつ出て来ちゃったよ。
・帯に「映像化不可能」とか書くなよ。
・はい出ました、同じ事件を二人の視点から追ってると見せかけてのやーつ。
・どうせこいつ人間じゃなくて犬なんだろ。
ですがしかし、この作品はそこが眼目じゃあないんですよ!(こんな言い方失礼ですが)
その「トリック」を成立させている状況の、人間の狂気こそが読みどころなのです。
ほのぼの小学生パートも、クヨクヨ社会人パートも、全てはこの非日常的、非人道的な
「仕掛け」との落差を構築するための演出。
誰かが『容疑者Xの献身』を指してこんな風に評していたのを思い出します。
>このトリックってミステリとしてはベタ中のベタだけど、読んでてそれに気付かないのって、作品の舞台があまりにも「日常」だからだよね。
もし、山奥の洋館で呪われた一族が死んでいくような話だったら「あのネタかな」って思い当たったかも知れないけど、隅田川沿いの安アパートの母子家庭の部屋で「このネタ」が使われると思わないもん。
その「日常」と「トリック」との落差がこの小説を成立させてるんだと思う。
読後感で言えば、この作品もまさにそんな感じ。
「えっ、お前そんなことしちゃったの!?」という“唖然感”をぜひ味わって下さい!
ところでこの本、読んだ人に感想を聞くと、けっこう誰からも言われるのが、
「あの『ラストの1行』ヘンじゃない?」
という指摘。
作者の胡傑先生ご自身も、コメントで影響を受けた作品としていくつか作例を挙げてらっしゃいますが、「フィニッシングストローク」モノというんですか、「最後に登場人物の一言で真相がひっくり返って切れ味鋭く終わるやつ」あるじゃないですか。
それを目指して書かれたものだとして読むと、確かに最後の台詞、ヘンなんです。
種明かしにしては遅すぎる。だって、最終章の前半で既に事件の真相は何もかも明かされてしまってるんですから。
ただ、私はどうもこの1行は、そういうミステリ的フィニッシングストロークを目指したものではなく、別の意図を持った物語的演出だと思ってるんですよね。
というのも……あー、これを書き始めたらとまんないぞ。ただでさえ1回の更新が長いと
日頃から叱られてるのに!
しょうがない!次に持ち越します!
次回はネタバレ全開で『ぼくは漫画大王』をさらに徹底レビュー!
To be continued…