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風狂奇談倶楽部の活動記録や雑考など

「新本格という病」プチ読書会

秋好「今更ですが、『CRITICA』第12号に評論「新本格〉という病」を寄稿しました」

石井「ちゃんと買いましたよ」

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://www.geocities.co.jp/tanteishosetu_kenkyukai/critica.htm

秋好「まずそもそも、探偵小説研究会で「新本格ふりかえり座談会」をしようという話があったんですよ。で、それに備えるため、風狂でも事前に勉強会を行なったんですけど、座談会は自分の力不足が大きく、個人的には望んでいたような内容にならなかった。そのフラストレーションを込めて書いたのが、この「〈新本格〉という病」ってわけです」

白樺「いきなりだけど、内容について質問。議論の前提として、現在の本格ミステリにジャンルをドライブする一体感がなくなったということが言われているけど、そもそも何で一体感が必要なの?」

秋好「『21世紀探偵小説』の飯田一史さんの序論のことだよね。そんなに変なこと言ってる?」

白樺「変なことは言ってないし、かつてジャンルにそういう盛り上がりがあったのは間違いないと思う。でも本当に盛り上がりの場がないとダメなのか?という話。それがなくなったからといって、何かが死んだわけではない」

秋好「そもそもジャンルとしての盛り上がりが必要かって話?」

白樺「一つの方向に向かっていく必要があったのかっていうこと」

秋好「別に新本格ムーブメントにしろ、その後の九〇年代のミステリシーンにしろ、一つの方向に向かっていたなんてことはないでしょ。ジャンルは決して一枚岩ではなく、様々な対立軸があって、そのこと自体がミステリ界全体の盛り上がりになっていた。それを踏まえて〈ドライブ感〉と呼んでいるわけで」

荒岸「ドライブ感がなくなったということでいえば、巻頭の「新本格三十周年ふりかえり座談会」でも、秋好さんは〈X論争〉が最後のお祭りだったと言ってますね。X論争以降に華がなくなったとは、自分も思ってるところです」

秋好「そのあたりまでは、ジャンルとしての盛り上がりを示す場が存在した。そしてその場とは、批評の場でもあったと思うんですよ。新本格ムーブメント以降、批評の軸は島田荘司笠井潔の影響下で形成されていたのが、その影響力が次第に薄れ、やがて場自体がなくなってしまった。何故影響力が薄れたのかは、検証の余地があるけど」

白樺新本格の親殺しというやつね」

秋好「X論争の際に巽昌章さんが指摘していたのは、「この十年余り笠井潔のもとに培われてきた批評の言語が、一気に機能不全に陥るかもしれない危機」。それに対して千街晶之さんは、いっそ機能不全になったほうが新たに生まれてくるものもあるのではないか、と書いていたけど、いまだに荒涼たる地平はそのままで、〈新種の花〉は現れていないのではないか」

石井新本格ムーブメント=第三の波を構成していた批評的枠組みが死んでいるのに、そこに対する考察なく、新本格三十周年といっていいのか」

荒岸「以前、『双頭の悪魔』で読書会をやったんですけど、そのとき後輩が「新本格というよりも本格だと思った」という感想を述べていました。もはやムーブメントではなく、カテゴリ名だと思ってる人の方が多い。歴史的経緯を踏まえずに、新本格という用語が独り歩きしているように感じます」

石井「だからこそ、「新本格という病」を再起動しないといけないって話ですよね」

荒岸「一九八七年以前/以後で切断を入れることによって、ミステリ史の豊饒な過去がスーパーフラット化し、新本格ムーブメントが第三の波と定義された、というのはその通りだと思いました」

秋好「整理しておくと、新本格=第三の波とは、切断とスーパーフラット化によって創出された空間だと考えていて、それを〈病〉と呼んでいるのだけど、現在は病名だけが残って、症状が忘れられている。だからこそ、単に懐古するのではなく、新本格とは何だったのかを構造的に論じる必要があると思うんですね。笠井理論とは別に、歴史的な縦軸と同時代的な横軸、その両面から捉えてみたいな、と」

荒岸「同時代的には、新本格とはアマチュア(素人)の台頭という文化的潮流の一事象という捉え方をされていますよね。そこで例えば〈渋谷系〉やヒップホップカルチャーのサンプリング文化を、アマとプロの区分の崩壊という話に繋げていますが、新本格の終焉の要因をそこに見出すことができるのでは?」

白樺「サンプリングはもうできない?」

荒岸「いったん歴史性を剥いで配置しなおすのがサンプリングじゃないですか。でも、歴史性を剥いで配置し終えてしまったら、そこには剥ぐための歴史性がなくなってしまう。そうすると、サンプリングの対象となるネタがない」

秋好「サンプリングという方法論の他に、アマチュアの台頭の例として、論稿内では第二次バンドブームや女子大生ブーム、とんねるずを筆頭としたお笑い第三世代に、ニューアカブームなどを話題にしたけど、そこに書いてないものとして思い付くのが、まずコミケですね。第一回が一九七五年に開催されて、徐々に規模を大きくしていった。プロとアマの垣根がなくなる土壌が、そこですでに形成されている。もう一つは、『このミステリーがすごい!』の開始。日本推理作家協会の会員が投票していた『週刊文春』のミステリーベスト10に対し、プロアマ入り乱れて本当に面白いものを選ぼうということで作られたのが『このミス』だから」

白樺「アマチュアリズムって二つあるんだよね。ひとつは、「プロじゃない」立場だからこそ既製の枠組みを外れたことができるよ、新鮮な表現ができるよ、という、内野から見た期待感としてのアマチュアリズム。もうひとつは、「こういうのだったら俺でも出来るんじゃない?」っていう、外野から見た参入可能性としてのアマチュアリズム」

石井「でも、なぜ七〇年代から八〇年代にかけて、アマチュアの台頭が起こったのかな。僕らが中学生、高校生のころにも、ネット発でアマチュア的なものが盛り上がっていたけど、そのころと質的に同じなのか、違うのか」

白樺「レーベルに金がある時代は冒険がしやすいって話じゃない?バブル期は金があったから、テレビ局も出版社も素人を使って冒険的な企画ができた。ゼロ年代もやっぱり景気が回復してきたからかな、と」

秋好「高度経済成長を経て日本全体が豊かになったことで、文化的な格差が小さくなくなったというのはありますよね。それまで垣根があったからこそ、素人を引き上げて使うということに面白さがあった。もっと言うと、素人の時代が訪れたというのは、つまるところリアリティレベルが変質したということでもある」

石井「というと?」

秋好「ライムスターの宇多丸がラジオでAKB48のドキュメンタリー(『Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』)を論じたときに言ってたことだけど、日本アイドル史というのは、何がリアルかということの変遷であると。八〇年代は旧来のアイドル像がリアリティを失っていて、ぶっちゃけるほうがリアルという時代だった。要するに、おニャン子クラブとか、キョンキョンとかね。それがやがて、岡田有希子の自殺という圧倒的なリアルで臨界点を迎え、次第にアイドルよりもスキル主義のアーティスト志向な時代になっていく。同時期にプロレスでも、リアルファイトを謳ったUWFから始まって、Uインターやリングスの流れで、総合格闘技と交わるリアル路線が盛り上がっていったわけでしょ?新本格がムーブメントになりえたのも、そのアマチュアリズムが当時のミステリシーンでよりリアルだったからだと思う」

白樺「体験していない時代のことを言うのもなんだけど、八〇年代にはまだマスメディア、テレビとか雑誌とかに誰もが権威を感じていて、メディアが〈素人〉を見出す、引き上げるって構造が成立していたと思う。それが、九〇年代から陳腐化していくとともにネットインフラが整備されて、〈素人〉が、旧来のメディアを介さずに自分から何かを発信できるようになったのが大きな節目だったのは間違いないよね。私はメディアに権威がなくなったとは思わないけど、役割は〈発掘〉から〈承認〉に変わったんだろうなと感じてる」

石井「そういった権威やアマチュアリズムの変容の中で、ミステリはどう変わっていくのか、っていう話だよね」

秋好「で、話は変わって、縦軸としては柄谷行人の〈六十年周期説〉を援用しています。説の具体的な内容は「一九七〇年=昭和四十五年――近代日本の言説空間」を読んでいただくとして、ごく簡単にいえば、昭和は明治を反復しているが、昭和が長く続きすぎたあまり、昭和は昭和に回帰してしまったということが書いてある。笠井潔の大量生/大量死理論だと、新本格は戦後本格の螺旋的反復という解釈だけど、六十年周期説という見方をミステリにも適用すると、ちょうど戦前の乱歩を中心とした探偵小説ムーブメントを反復していることになるのではないか」

荒岸「でも、歴史学をやってる人間から言わせてもらいますと、縦軸をそういう形でまとめるのは実証的にだいぶ危うい。実証性にケチをつけるのはナンセンスかもしれませんけど、サイクルの原理がわかりにくいので、どうしても力業に見えてしまいます」

秋好「もちろん僕も、六十年周期説が実証的に正しいとは思ってないですよ。ただ、新本格史観を崩すためにも、笠井理論以外の切り口を早急に提示しなければならないな、と。戦前に乱歩がジャンルを確立し、戦後は横溝正史の活躍で盛り上がっていたのに、松本清張の登場で社会派の時代になって、新本格ムーブメントが起こるまで、本格は長らく冬の時代が続いていた……みたいな史観が、意外と蔓延してしまっている」

荒岸新本格史観をいったん崩さないといけないという意図は、確かに理解はできるんですけど、とはいえやはり、目的論的な歴史観には抵抗があります。パッケージを借りてきて崩しても、それはちょっと……」

秋好「荒岸くんの批判はよくわかるし、仰るとおりだと思います。ただ、別に六十年周期説に固執してるわけではなくて、あくまで一例というか、こういう見方もできますよっていうのを示したかったのね。実証的にどうなのかって点では、それこそ大量死理論だってそうだし。僕の狙いとしては、この六十年周期説をさらに批判するような形で、現代本格を歴史的に位置づけていければいいなと思ってます」

石井「〈第三の波〉とか〈脱格系〉みたいに、今の潮流を表現する新しいタームがあるといいね」

白樺「最初にちらっと言った、「そもそもジャンルの一体感って必要なの?」って話にもつながるんだけど、クリエイターの在り方と同じくらい、ファンの在り方も変わってると思うんですよ。秋好くんが「アイドル像の変遷」に言及したのに便乗すると、よく「安室奈美恵が最後の『国民的歌姫』だった」って言われるじゃない。一家に一台のテレビを家族みんなで見ていた時代には、たぶん〈国民的なもの〉はあり得たんだけど、テレビが一人一台になって、さらに検索エンジンSNSで、自分が知りたい、自分にとって好ましい情報はいくらでも手に入れられるし、それ以外はシャットアウトできるようになった90年代後半以降は、きっと〈時代の一体感〉ってイメージ自体が古くなっちゃったんだよね。歌謡曲やテレビ番組の潮流と小説を一緒くたにはできないかもしれないけど、最近の若手のミステリ作家さんたちを考えると、世代で横並びなキーワードがあるっていうよりも、それぞれが自身のカラーや系譜(どんな作家・作品の影響下にあるか)をビビットに打ち出して「こういうのが好きな人寄っといで!」って見せる売り方が共通してるのかな、って気がしていて」

秋好「最後の国民的歌姫は浜崎あゆみ宇多田ヒカルじゃない?まあそれはともかく、確かに若手作家をひとくくりに論じるということは、現代では困難ですよね。〈ポスト・トゥルース〉派とか呼べればいいんだけど」

白樺「絶対呼ばれたくないでしょ」

(文責:秋好)