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三冠おめでとう!『王とサーカス』読書会!(執筆者:白樺)

あけましておめでとうございにゅーいやー。白樺香澄です。

「刑事コロンボvs日高屋」をほっぱらかして始めた「倒叙ミステリ七つの大罪スペシャル」がどう絞っても12個になってしまうのでまたもほっぱらかして幾星霜。

そんな中、1月9日にサークルで開催させて頂きました「三冠おめでとう!新春『王とサーカス』読書会」なのですが、ツイッター上などで「行きたかったけど行けなかった」「レジュメ見せて」と声を掛けて下さる方がいらっしゃったので、せっかくなのでこちらで公開いたします!(あくまでレジュメなので体裁は荒いですが……)

あ、こわい人に怒られたらすぐ消すよ!フランクに『王とサーカス』『氷菓』『さよなら妖精』『儚い羊たちの祝宴』『折れた竜骨』『満願』あたりのネタバレしてますのでご注意を!!

 

 

1,『王とサーカス』前日譚  ――米澤穂信の「作家性」

 

(1)『氷菓』の「他人事」感

 

☆架空の街、浮世離れしたキャラクター、ウェルメイドな物語構成

……米澤穂信の「つくりものめいた」作風の源流は?

 

泡坂妻夫連城三紀彦、二人の『幻影城』作家への私淑

 

『煙の殺意』は鮮烈な読書体験だった。(中略)ことに「椛山訪雪図」の、美しさがミステリの鍵になる構造にたまらなく魅せられた。いまでもあの短編は私の夢だ。「狐の面」での、空の色を絵の具で作る場面も、一朝一夕には描き得ない人間の深みが軽やかに表されていて陶然とする。(「よろこびの書」/文藝別冊『総特集 泡坂妻夫』)

 

『満願』は“自分の好きなミステリーを書く”趣旨の作品集なので、泡坂妻夫さんや連城三紀彦さんの短編が影響している可能性は高いし、(中略)白木蓮のトンネルを歩くシーンがあるのは、自分の中に〈花葬〉シリーズが根付いているからかもしれません。(「2015年 このミステリーがすごい!」インタビュー)

 

・「椛山訪雪図」の「絵の色彩が変わる」トリック、「狐の面」の「空の色を絵の具で作る」エピソードはどちらも『儚い羊たちの祝宴』の「北の館の囚人」に踏襲されている。

・『連城三紀彦レジェンド』で米澤が推した「花衣の客」の、「〈父〉たる男を巡る母と娘の女の戦いロリコン親子丼)」プロットは、『満願』の「柘榴」の発想元?

 

 

☆泡坂ミステリの力学

 

「僕の場合ね、非常になんというかトリックが好きで、とにかくトリックがなければ夜も日も明けないというような状態ですから、そのトリックのためなら文学性とか社会性とか人間情念とかそういったあらゆるものを犠牲にして作っちゃう。そんなものはいらない。このトリックのためなら、そういうものを犠牲にしてトリックの世界を作ろうと、そういうような気持ちがありますよね」

(座談会「新鋭作家大いに語る」/『幻影城』78年9月号)

 

(ポーの諸作について)

「その技法というのは、奇談を小説の中で論理的に実証してみせるというものだった。その結果、奇談は一時奇談性を失うが、物語の全体を見渡したとき、読者は更に大きな奇談が用意されていたことに気付くという、二重の驚きを経験する。(中略)『モルグ街の殺人』は密室の殺人を扱った最初の小説だが、これも密室が奇談でなくなってからが凄くなる。密室の解明は、もっと恐ろしい新たな奇談の出現につながる。」(『ミステリーでも奇術でも』)

 

※『モルグ街の殺人』の「新たな奇談」とは何か?

「誰も出入りできないはずの部屋で人が惨殺された」事件を、悪魔や幽霊の仕業あるいは神罰ととらえるオカルティックな、宗教的な〈理由付け〉は、恐ろしいがある意味ではその「物語」を聴く者の恐怖を軽減してくれる。

「悪しきものに魅入られるような、あるいは天に罰せられるような疚しい心を持たなければ殺されることはない」という、死を回避するロジックに安住できるからだ。

しかし、「いきなり乗り込んできたオ*****ンに殺された」という〈解決〉は、それが宗教的ロジックから隔絶された「偶然」であるが故に、誰もその恐怖から逃れられない。

 

→泡坂自身の方法論でもある

読者にとって「他人事」に見えないよう演出することが、“トリックを成立させるために世界を作る”力業を使いながら、読者に物語を「机上の空論」と突き放されないためのテクニック

 

「サイコロを振って、連続して同じ目は出ないだろうと思う」「完璧な建造物には魔が宿る」「成功者にならって験を担ぎたい」

……「意外な動機」を描いた泡坂ミステリは、散りばめられた伏線による誘導で、それを人口に膾炙した慣習や、誰もが頷けるような「思考の癖」と地続きのものに見せることで成立している

読者とニアリーイコールな「普通の人」である作中の視点人物は、〈悪意〉が自身と地続きであることに気付き、戦慄する

 

→読者の「日常」が物語の「伏線」になる,「ふつう」が〈奇談〉に呑み込まれるスリル

 

「他人事」に思えた〈事件〉が、解決した瞬間に一気に読者の側に距離を詰めてくる

→『空飛ぶ馬』以降の「日常の謎」にも一脈通じるメソッド

 

 

◎「意外な動機」も「日常の謎」も、読者≒作中視点人物にとって「他人事ではない」ことが重要……のはずが?

 

☆「名探偵=ウルトラマン」説

 

「名探偵による謎の解決」を主眼とするミステリにおいて、名探偵は常に「異邦人」でなければならない。

 

→事件が発生した時点では、物語世界の人々は全員、犯人の提示する「偽りの真相」(アリバイや密室etc)に騙されていないとミステリは成立しない

=その「場」において最も力が強いのは犯人、ゆえにそれを打ち倒す探偵は、「場」の外から召喚されなければならない

 

名探偵は常に、「ある『場』の論理」に対して自由でなければならない

=いかなる「場」にも帰属しない漂泊性が求められる   cf,亜愛一郎,金田一耕助

 

◎「他人事」だから名探偵でいられる!

 

氷菓』は主人公であり視点人物の折木奉太郎が名探偵の位置を占めている

ゆえに、作中で起こり、解決される「日常の謎」は常に奉太郎にとって「他人事」

→だから、『氷菓』の「日常の謎」は〈どうでも良いもの〉に見える

 

氷菓』の「日常の謎の解決」は、「折木奉太郎は名探偵=どこにも帰属しない人間として振る舞う」事を説明するための“キャラ描写”に過ぎない

 

そして『氷菓』のメインの「謎」はあくまで〈三十三年前の事件〉

 

→「帰属しない人間」の物語である事を守るために、折木奉太郎の探偵譚は「謎」に対して距離がある

 

いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。(五章「由緒ある古典部の封印」)

 

 

(2)青春の終わりと「謎」との距離感

 

米澤穂信は折に触れて、自身の初期作品のテーマを「青春期の全能感と無力感」であると総括している

 

結局、いまの子どもたちは――まあ自分たちの世代ですけど――、こうなりたいという情熱は仮にないとしても、では自分にはいったい何ができるのだろうかというスキルへの懐疑は持っている。そのスキルへの懐疑を無視すると、俺は大物なんだというわけのわからない全能感に走ってしまい、ふらふらと時間を浪費して、遠くない未来に自分が何者でもないことに気付くというオチになってしまう。(中略)一方でそうならなかった人は、自分の全能感をトライアルしないといけない。そのトライアルを経て自分のスキルの限界を見極める過程をミステリでやりたかったんですね。(中略)ビルドゥングス・ロマンという言葉を使ってしまったのは言い過ぎで、この全能感と裏返しの無能感、これを試験にかけることで自分を客観視することのできる視点を獲得する、そこまでの物語として〈古典部〉シリーズと〈小市民〉シリーズは考えています。

笠井潔との対談「ミステリという方舟の向かう先」)

 

全能感とその裏にある無能感は、厳しく言えば青春の勘違いです。それをテーマにしてきたけれど、延々と続けるものではなく、一度総括する必要があった。それを『ボトルネック』で書いたつもりです。(「このミステリーがすごい! 2015」)

 

 

「全能感(そして無能感)をトライアルし、自分のスキルの限界を見極める」

 

→“何でも出来る自分”“何にでもなれる自分”=“まだ何者でもない、どこにも帰属していない自分”という自己イメージを捨て、「自分」という範囲の限界、“世界における自分の立ち位置”を知る

 

「自分がどこかに帰属している」ことを自覚する

 

探偵以外の人物の視点で書かれるミステリにおいて、名探偵の漂泊性は、「視点人物にとってそう見える」「視点人物の帰属する世界に立っていない」ことで担保されるが、探偵の視点で書かれるミステリにおいては、「探偵自身がそう意識し、振る舞う」ことが求められる

 

米澤ミステリにおいて「名探偵として振る舞うこと」=「帰属しないこと」は〈子供〉にタイムリミット付きで許された「返納すべき特権」

 

ex,『氷菓』の軟着陸……後述

 

ボトルネック』(2006年)を書き終えた米澤が2007年から書き始めるのが、のちに『儚い羊たちの祝宴』にまとめられる連作だった。

 

→『儚い羊たち』で米澤が描いたのは、「どこかに帰属すること・帰属し続けることを求める人間」

ex,「バベルの会」、名門の相続人の権利、主人、屋敷……

 

→「どこかに帰属する人間の執着」の物語は、『満願』にも継承

 

「過去から引きずって(ノンシリーズ作品では『儚い羊たち』の前作である)『インシテミル』ですべてやり終えました」

(ハヤカワミステリマガジン「迷宮解体新書」第十四回 (括弧)内は筆者)

 

→『儚い羊たち』以降はいわば、米澤ミステリの「第二期」

 

『折れた竜骨』では、『氷菓』の語り直しのような〈帰属する者〉の悲劇が描かれながら、その物語における意味合いはまったく異なっている

 

氷菓』においては、「六月斗争」のリーダーだったために見せしめとして処罰された関谷純は、不本意な「犠牲(イケニエ)」であったと結論づけられる

 

 関谷純の事件は要するに、三十三年前の生徒たちの活気に溢れるアクティブなスタイルの行き過ぎがもたらしたものだ。(中略)あの事件のことを知って以来、俺は居心地の悪さを感じることはなくなった。自分のスタイルがいいとは思わないが、相対的に悪くはないだろうといまは思っている。(九章「サラエヴォへの手紙」)

 

→奉太郎は〈帰属しない自分〉で居ることに自信を持つようになる

 

一方で『折れた竜骨』のファルク・フィッツジョンは、自身の帰属する集団(聖アンブロジウス病院兄弟団)の名誉を守るために、自ら進んで「犠牲」となる

 

→主人公アミーナは、事件の後で「海の先への憧れ」を捨て、エイルウィン家を守るために生涯ソロンに囚われることを決意する

〈帰属する場所のために犠牲になること〉がネガティブに描かれない

 

※米澤作品における「海」

古典部〉の神山市(米澤の出身地である岐阜県高山市がモデル)がそうであるように、米澤作品の舞台となるのは「海から隔てられた山がちの街」

「海」は、「自分をここではないどこかに連れて行ってくれる」あこがれの象徴

・『氷菓』奉太郎の姉は「海の向こう」から手紙をくれる

・『折れた竜骨』アミーナは島の外の世界、「海の先」に憧れている

・「北の館の囚人」の海の絵

・『さよなら妖精』マーヤは「アドリア海に面した国」から「海を渡って」やってくる

→そして同時に「成長のために、決別しなければならない甘え」の象徴でもある

 

2,そして『王とサーカス』   ――『さよなら妖精』との比較から

 

(1)『王とサーカス』は、『さよなら妖精』と対になるように設計されている

 

・『さよなら妖精』は「自分が人が救えるかも知れない」という幻想を打ち砕かれる物語/『王とサーカス』は「自分のせいで人が死んだのかも知れない」という幻想を打ち砕かれる物語

 

・『王とサーカス』における万智は、『さよなら妖精』におけるマーヤと同じく「『祖国より暖かく、雨の多い国」にやって来た異邦人(日本を中心にして移動方向が逆転)

 

・『さよなら妖精』では「英語」はコミュニケーションの道具として機能しない/『王とサーカス』において「英語」は「嘘」を伝えるもの(ラジェスワルとサガルの言葉、『INFORMER』の文字)

 

・「ナイフ」と「髪飾りの贈り物」という共通する小道具

 

・双方のラストで、『さよなら妖精』の守屋は「隠された真相」に辿り着けない/『王とサーカス』の万智はサガルの嘘を見抜く

 

・どちらも、主人公が「顔が変わった」という言葉を投げかけられる場面があるが、それを告げるのは主人公の変化を望まない人物である。(意味するところは正反対だが)

 

・『さよなら妖精』は、橋を装置に「行って帰ってくる物語」の構造を持つ/『王とサーカス』は「行きの飛行機」が描かれないため往復構造が成立していない

 

→『さよなら妖精』は、「自分がどこに立っているかを知る」に到る物語=最初から立っていた場所こそがゴールだが、『王とサーカス』は、「自分がこれからいかに生きていくべきか」に結論が置かれている。

 

冒頭で、「誰かの祈りで目が覚め」た彼女の頭上には「不穏なひびが斜めに入る天井」

終章で、「誰かの歌声で目が覚め」た彼女は飛行機に乗って「雲海の上」に出る

 

→遮るものが取り払われ、万智は空の向こうへ飛び立つ

 

「わたしはどこにいるのだろう」(7ページ)←→「自分がどこにいるのか思い出す」(405ページ)

 

・ラストで明かされる「サガルの正体」は、『王とサーカス』における万智-サガルの関係を、『さよなら妖精』におけるマーヤ-守屋の関係に当てはめて読むことのできる人間には、大きなどんでん返しになる

 

→〈異邦人である自分に様々な知識をもたらしてくれた現地人の、独りよがりな「好意」〉という「ニセの解決」を素直に呑み込んでしまう

 

 

(2)キャラクターの名前分け

 

太刀洗 万智:「よろずの知恵によって刀の血を洗い流すもの」刀の血=「業」,救済者、名探偵を宿命づけられた名前、「名探偵の五文字名」

 

万智がトーキョー・ロッジで出会う人物の名前は、大きく二種に分類できる。

 

ラジェスワル:「ラジェスワリ」はヒンドゥー教の女神パールヴァティーの別名に由来する女性名。パールヴァティーはヒマラヤの山神の娘で名前の意味は「山の娘」。

 

チャメリ:「ジャスミンの花」の意。

 

ロバート・フォックスウェル:「フォックスウェル」は「きつね穴、きつねの住む土地」。

 

→「山」「大地」に属する名前

 

八津田 源信:「ヤツ」は「谷」、またその字にはさんずいの「津」が含まれている。

 

サガル:現代ネパール語でsagarは「海」の意味。

 

→「水」「海」に属する名前

 

……『王とサーカス』の“犯人”二人はそれぞれ、「水」に関連する名前を背負っている。

→米澤作品における「決別しなければならない『海』」モチーフとの関連?

 

※ちなみに警察の二人「バラン」と「チャンドラ」は、

バラン:ヒンドゥー教の聖典ラーマーヤナ』の英雄「ラーマ」の末裔を称する姓

チャンドラ:インド神話における月の神

→どちらも宗教性の高い、「支配者」の色が強い名前

 

(3)ジャーナリスト小説としての「不徹底さ」

 

『王とサーカス』で語られる「報道の限界と暴力性」に対する(作中での)解答

→「報道」には限界があるからこそ、より多くの「目」によって多様な側面から伝えられなければならない

 

しかし『王とサーカス』というテキスト自体に対して読者は「多様な視点」を持ち得ない

「犯人の独白」によって事件の全容は完全に説明されてしまっている

 

(『儚い羊たちの祝宴』のラストについて)

「読者の解釈で結末を変えることもできる物語って楽しい。自分の子供の頃の楽しみをそのまま読者にも楽しんでもらえるよう、想像の余地を広げるように作りました。」(本の話web「なぜ〈古典部〉シリーズの『愚者のエンドロール』の次に『さよなら妖精』を書いたのか――米澤穂信」)

 

オープンエンディングな物語への志向を語る米澤が、なぜそれにふさわしい本作においては採用しなかったのだろう?

 

→例えばサガルの行動の意味には、『さよなら妖精』を前提としたミスリードも用意されており、二通りの解釈を読者に向けて開いても良かったのではないか?

 

※「サガル」という名の二重性:

ネパール語のsagarには「海」の他に、綴りは同じで発音を変え「空」の意味でも使われる。「サガル」と文字にすると、どちらの意味なのか識別できない。

→「サガル」は単に「海」でなく、万智を新たなステージ=「雲海の上」へと導いてくれる存在という、複数解を前提とした名

 

なぜ『王とサーカス』は、〈想像の余地〉〈多様な解釈〉を放棄してしまったのか?

 

前作『満願』に対する第151回直木賞選考委員会の東野圭吾の選評

 

「筆力には感心した。だが今回の作品集には、残念ながら矛盾や不自然な点がいくつかあった。最も致命的なのは『万灯』で、コレラについて完全に間違えている。コレラの主症状は下痢で、菌は便からしか出ず、しかも経口感染。通常、人から人へは感染せず、この小説のケースでも感染はありえない。」

 

東野圭吾は明らかに「万灯」を誤読している

 

「万灯」は、雑誌掲載時(「小説新潮」2011年5月号)から大幅に改稿された作品

・「自殺を覚悟する」結末から、「裁きを待つ」宙ぶらりんなラストへ

叙述トリックがカットされている

・雑誌掲載時には存在した「病院で医師の治療を受ける」くだりがなくなっている

 

→しかし、「コレラの症状」は修正されなかった

これは単なるミスなのだろうか?

 

実はそれぞれの短編に、そこはかとなく底流に通じさせているものがあるんです。それは、人々が心の中ですがっているものや、願っているもの。「満願」であれば達磨、「関守」では道祖神、「万灯」では蘇民将来など。全体のイメージを考える上での隠しテーマのようなものですね。(『文蔵』「話題の著者に聞く」)

 

→『満願』のテーマは「信仰」

「万灯」においては「神」は「疫病」であると同時に、「信じる心」そのもの

 

「万灯」の主人公・伊丹はあまりにも「無邪気に信じてしまう」男として描かれる

優秀な、信頼できる人物だと思った高野、斎藤、そして森下に次々と〈裏切られる〉

→その「信じやすさ」「思い込みの激しさ」ゆえに突き動かされ、破滅に至る男の悲劇

 

……ならば物語の結構として、伊丹を裁く「神」は「疫病」だろうか?

なぜ、「医師」のくだりはカットされたのか?

なぜ、コレラの症状として明らかにおかしい「吐瀉」の場面は残されたのか?

 

!以下は完全な私説・珍説です!

 

『王とサーカス』もまた、異境たるアジアで「他者の言葉を無邪気に信じ、裏切られる」者の物語

 

→「万灯」は『王とサーカス』のいわば前哨戦だった。

本来、オープンエンディングとなるはずだった『王とサーカス』は、“ちゃんと説明しないと東野圭吾でさえ誤読してしまう(いわんやパンピーをや)”というプロトタイプの失敗を鑑み、ジャーナリスト小説としての「豊かさ」を放棄してでも「説明し尽くす」方向に舵を切ったのではないだろうか?

 

作者の無念は、本書の表紙から聞こえてくるではないか。「吐き気」の描写に込めた意味を誤読され、直木賞を逃した作家の悲鳴。選考委員がサーカスなのか、それに踊らされる作家こそがサーカスなのか。

だからこの小説のタイトルは、『嘔吐サーカス』なのだ。